生き辛さを感じたときに

 

 桜の木を上から見たことはなかったな。

 

 五階のベランダから、木村屋の桜アンパンをほおばりながら考える。ベランダに座って、透明なコップに麦茶を注ぐ。琥珀色の液体を眺める。いつかこれがウイスキーになっていたりするのかしら。誰からも見られない狭い空間で思考を巡らす。

 

 昔から人と共有することが苦手だった。好きな芸能人がいても私のペースで深堀りすることが楽しかった。否定されることを恐れるというのではなく、誰かに語る必要性を感じなかった。私だけの聖域のようなものだった。

 

 今はきっと共有の時代なのかもしれない。インスタグラムで今日の食事までをも公開し共感をもとめる。一応、周りに合わせてうまくやるモードの私は、時々共有を実行するが、どうでもよいなと思うことも多い。私が共有したいのは事実ではなく思考なのだ。意見交換なら喜んで応じよう。

 

 あの子は孤独から逃げているのか。追いつかれないように必死に予定を詰め込んでゆく。友達といるときは孤独から逃げていられるから。追いつかれないでいられるから。

 

 私は孤独の方に向かって歩いてゆく。ひとりになりたい、とつぶやきながら寄り添ってゆく。誰にも語らず、誰にも見せない自分だけの贅沢な時間を欲する瞬間がある。

 

 孤独に飲み込まれたときの不安は両者に等しくあるのだけれど、私には孤独は聖域だ。

 

 

 

 神田川の水音がする。今年は早くも桜が咲き始めている。そうか、一年前私がここに来たときはすでに満開だったから、咲き始めの姿を見たことはなかったのだ。この桜を私はだれかと共有するのだろうか。

 

 

 

 

 

~この文章は3月19日に書きました~